罠-東京ラブパラドックス-
カーテンも閉めず電気も点けないままの部屋には窓から差し込むネオンだけが緑や黄色に彩られながら赤くチカチカと部屋を照らしていた。
壁に貼られたポスターはネオンが点滅する度にその姿を浮かび上がらせている。
観葉植物の隣で趣味の置物がすっきりと配置された棚は、外部から窓に差し込むの黄色い光によって鋭角に切り取られる。
「碧緒、いるの?どうした?部屋暗くしたままで。」
シーンとした室内に、予想より大きく自身の声が響いて、夕は少し驚いた。
言いながら部屋の電気をパチリと点ける。
静かな部屋にキンッという音が走り、パッと部屋の中に明かりが満ちる。
一瞬前まで薄暗がりだったその部屋で、ベッドに背をもたれ立てた両膝にだらりと両手を預け俯き、全身にまるで生という力を入れることを許されていない骸さながら座り込んでいた碧緒を見つけ、夕は寒気を感じた。
だが夕が電気のスイッチをつけたその一瞬後に、自身にもスイッチが入ったかのようにハッと夕を仰ぎ見た碧緒は、血の気が引き表情ごとどこかに置き忘れてしまったかのように見えた。
「夕!!!!・・夕!・・・ゆうぅぅぅぅ・・・っ。」
次の瞬間、碧緒は夕の顔を見ると、静まりかえった部屋に響き渡る声で叫ぶ。血の気のひいていた顔には僅かだけ赤みが差し、悲しみに表情をゆがめる碧緒は、夕に駆け寄りすがりつくように夕のシャツの胸元を掴みながら泣き崩れた。
アイツの横でいつも明るく幸せそうな笑みを浮かべる碧緒しか見たことがなかった夕は、この事態が尋常ではないことだけはわかった。
子供のように泣きじゃくる碧緒を、夕はわけもわからないままただ強く抱き締め返す。
本当ならこの強く抱き締め返しているのは10年以上碧緒のそばにいるアイツのはずだ。
それなのに碧緒は今こうして自分の腕の中におり、そして碧緒の心をこれだけ乱せる原因はアイツなのだと夕は悟っていた。
どれくらい時間が経ったのだろうか。先程よりは大分落ち着いたがまだ方を震わせている碧緒の背中を夕は優しくさすりながら、そのさする手よりも優しい声で碧緒に問う。
「碧緒、どうしたの?何があったの?僕に話せる?」
碧緒は肩を震わせているだけで、夕の声は聞こえていないかの様だった。
再び夕は碧緒のことをただ優しく包み込む。
碧緒と夕は高校の入学式で出会った。初めて碧緒を見て夕は一瞬で恋に落ちた。
すぐに碧緒との距離を縮めた夕は、否応なしに碧緒が誰を見ているのかということを実感することになった。
碧緒は最初からアイツに夢中だったし、夕が碧緒に自身の想いを打ち明けた後も碧緒の視線が夕に注がれることは一瞬だってなかった。
今日までは。
「ごめん。夕。こんな風になるつもりなかったんだけど、夕の顔見たら何か感情が溢れちゃって。ごめんね。」
やっと落ち着きを取り戻したらしい碧緒は泣きはらした目でポツリポツリと取り乱した理由を夕に語り出す。
碧緒によれば、ここのところのアイツは碧緒に対して様子がおかしかったらしい。そして、碧緒が放った他愛のない言葉がアイツの何かに触れてしまったようで「もうお前にはついて行けない」という言葉を吐き捨て同棲しているこの部屋に帰らなくなったという。
出て行ってもう2週間は経っており消息がつかめなくなっているらしく、改めて見る碧緒は憔悴しきっており普段の美しい姿が今は見る影もない。
夕が知る限り多くの人に愛されるこの人を、こうまで追い詰めるアイツのことを今、夕は憎くさえ感じた。
アイツは、かつて同じ高校に通い夕とも親しかった。
アイツと碧緒が付き合い始めたときも碧緒がアイツを想う気持ちの強さを知っていたからこそ、そして夕には計り知れない絆をアイツと碧緒との間に感じたからこそ、ただ祝福した。
いや、気持ち程度に少しくらいは噛みついたかも知れないが可愛らしい冗談ぐらいのものだった。
碧緒が幸せになれるのはアイツがそばにいるときだけ。
アイツしか碧緒を幸せにすることはできない。
そう信じていたからこそ夕は今まで二人の中を応援してきたのだ。
それを。
ここまで碧緒を追い詰める、ここまで碧緒の心をかき乱すアイツ。
君の心をかき乱せるのが僕だったら良かったのに。
君を幸せにできるのが僕だけだったらいいのに。
今まで何度、幸せそうな2人の横顔を見ながらそう思ったかわからない。
「何がいけなかったんだろう?」
碧緒は消え入りそうな声で吐き出す。
と、夕はハタととある事実に気づいた。
この憔悴しきっている碧緒の姿を知っているのは自分だけではないのか。少なくとも夕は碧緒にとっては一番の親友で、時には恋人であるアイツより近い距離で接することだってある。
その夕が見たこともない姿で、碧緒は乱れ泣き崩れていた。
こんな風に碧緒を乱れさせることができるのがアイツだけなら、アイツはこの碧緒の姿は見たことがないのではないだろうか。
夕は自身の、邪な欲望という1粒の考えが心の中に落ちていくのを感じた。そしてその考えは波紋が広がるようにじわじわと自分を支配していくようだった。
夕はフルフルと一瞬広がった考えを打ち消す様に頭を振り、優しく碧緒に声をかける。
「いいんだよ、碧緒はそのままで。」
夕は微笑んで、泣きはらした碧緒の下瞼に残る涙をソッと親指で拭う。
碧緒は夕の鍛えられた胸にそっと額を預けると小さく言った。
「ありがとう、夕。夕がいてくれて良かった。」
この言葉を聞いた夕は自分でも意図せず顔が強ばった。
碧緒から発せられたこの言葉に夕は聞き覚えがあったのだ。
その言葉を碧緒から一度目に聞いた時、それは碧緒の口からアイツと付き合うことになったと聞いた時だった。
夕の顔が一瞬強ばったことに碧緒は気付いていないようだった。
わかっている。
碧緒がこの瞬間も考えているのは目の前の僕ではなく、アイツのことだと言うことくらい。
それでも。
今、碧緒の前にいるのは僕だ。
夕は、ほんの一瞬前に振り払ったはずの自身の欲望が再び頭の中に波紋となって広がるのを最早止める気はなかった。
10年を超える長い年月愛しい横顔を見続けやっと自身の身に訪れたかも知れないチャンスを、広がる波紋の中に見ていた。
その後、夕は傷心の碧緒に寄り添い、一緒にいられる時間をできる限り捻出して碧緒と共に過ごした。
そんな2人が親友から恋人へと関係を進めることはごく自然なことだった。
あの夜の後もアイツの消息を探していた碧緒は、やがて行方を追う手段がなくなると塞ぎ込んだ。
会社を辞めて家を出て行ったアイツがケイタイも解約してしまえば、この街で一般人から消息不明になるのは簡単だっただろう。
夕は、かつて2人が愛し合った住まいを引き払うのを手伝い、自分と碧緒との新しい家を一緒に探した。
アイツの連絡先がわからないまま痕跡だけが残る数々のSNSも「碧緒自身の新しい門出」と言い、ケイタイごと新しくさせた。
さすがに仕事を変えさせることはできなかったが、個人情報の管理にうるさい昨今、碧緒の職場からアイツに碧緒の情報が伝わることはないだろう。
あの夜以来、塞ぎ込む碧緒を夕はいつでも慰めてきた。
あの夜、碧緒が消え入りそうな声で呟いた「何がいけなかったんだろう?」という言葉は、今では碧緒の口癖になってしまっていた。
碧緒が自分を恋人として受け入れてくれた時に、夕は碧緒がアイツを忘れることは一生ないのだとわかっていた。
だから何度碧緒がこの言葉を吐こうとも、夕はその度にこう答える。
「いいんだよ、碧緒はそのままで。」
夕が微笑むと碧緒は安心した様に夕に微笑み返した。
・・・そうだ、碧緒はそのままでいなくちゃいけない。
僕の愛する碧緒。
アイツの横でいつも明るく幸せそうだった碧緒。
今は僕の横でいつも明るく、そしてどこかに喪失感を抱えたままの碧緒。
わかってる。
碧緒を明るく幸せな碧緒にできるのはアイツだけだ。
だから碧緒はそのまま僕の横で、いつもアイツを思いながら明るく、喪失感を抱えていなくちゃ。
そうだよね、碧緒。
碧緒は甘えるように夕の胸に額を擦りつけながら言う。
「夕。夕がいてくれて良かった。」
夕は碧緒を優しく抱き締めながら笑顔を浮かべて答える。
「うん。そのままの碧緒が好きだよ。」
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